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カネキ印の来島鯛

カネキの歴史

(1).時代とともに変化してきた漁法

江戸時代後期、初代経営者である矢野菊松が藩より「鯛舟曳」の許可をもらい網元として 漁業を営んだのが当社の創業です。 当社の沖合いの2つの島の沖に鯛の漁場があり、そこで舟曳漁法で漁を行っていました。 カネキの屋号を使い始めたのもこの頃からで、約150年の歴史を持っています。


舟曳とは、2隻の舟で網を引き上げる漁法で、網を入れるタイミングが非常に難しい漁法でした。



その後、矢野徳太郎へと引き継がれ、戦後すぐの時期、矢野喜徳一の代から「定置網漁法」に漁法が変わり、 9箇所で漁を行っていました。その後、1隻で魚を獲る「吾智網」という漁法が増え、 漁場に集まっていた鯛が散らばってしまいました。そのため、「舟曳網漁法」での収獲量が減少し、 「舟曳網漁法」に加え「定置網漁法」も開始しました。それ以降は「定置網漁法」が主体となり約50年間続きました。

太平洋戦争の時代、経済統制により地域の網元が合併し、「友浦増産組合」という生産組合ができました。 この組合は戦後も続いていましたが、昭和45年に当社が組合を買い取り、事業を拡大しました。

(2)事業の変遷 ~養殖業への積極的な展開~

昭和40年代、「定置網漁法」を主体としながら、養殖を試験的に開始したのが、 7代目にあたる現社長の矢野徳久です。 昭和37年、財団法人瀬戸内海栽培漁業センターが伯方島に設立されたのを機に、養殖業への展開を開始しました。 当センターでは、日本最初の鯛の孵化事業を開始しましたが、 採卵用の鯛は、当社が定置網で漁獲したものを使っており、当社とセンターとは深い関係にありました。

昭和30年代後半に、当センターで鯛の人工孵化が成功し、鯛養殖が現実的なものとなってきました。


このような状況を背景に、当社も積極的に養殖業への展開を図りました。 昭和51年には、自社で孵化場を設立し、50~60万尾の鯛の稚魚を孵化していました。
その後、鯛養殖は順調に生産を拡大し、昭和52年、鯛の販売拠点として今治営業所を開設し、流通分野へ進出しました。 営業所内には、活魚を常時備蓄できる水槽を設置し、中四国、関西地方などへ販路を拡大していきました。
孵化場、営業所は、事業環境の変化に合わせ閉鎖しています。また、定置網漁法についても、昭和の終わりとともに終了しています。


昭和55年9月には、さらなる事業拡大を目指し法人化しました。 昭和61年、700tの生餌を保管できる「冷凍庫」を建設しました。


さらに平成2年には、それまで使用していた「モイストペレット機」を大型機に買い替え、餌の生産を大幅に増加させました。
餌は、品質のいい魚を養殖する上で、非常に大切なものとなりますが、 冷凍庫やモイストペレット機への投資は、餌の安定確保に加え、当社独自の高品質な餌を製造することを目的にしています。
平成2年、自動網洗機を購入し、手間のかかる作業であった生簀の網洗いを自動化することができ、作業効率が大きく向上しました。


平成6年12月には新社屋、同年8月には第一倉庫を建築しました。
これまで手狭だった事務所や倉庫を拡大したことで、作業効率をアップすることができました。


平成8年、生協と連携し、安心安全な食品づくりに取り組むため商品のガイドラインを作成し、 それに基づき生産をしています。


平成12年6月には、加工場を開設しました。
消費者ニーズが変化する中、養殖魚を活魚、鮮魚だけで販売するのではなく、 フィレー、真空パック製品など加工品も販売し、製品の多様化を図っています。

令和2年(2020年)9月には、株式会社設立から40周年を迎えることができました。
これからも精進してまいりますので、皆様どうぞよろしくお願いをいたします。

写真出典 日本の水産 鯛(社団法人前日本水産写真資料協会 著 1974年)

カネキ印の来島鯛

カネキ水産が育てている「来島鯛」は、カネキ水産オリジナルの鯛です(商標登録済)。
しまなみの雄大な海で、弊社のこだわりと愛情を注いで、一生懸命育てています。

青いアイシャドー

「一級品の鯛はメイクをしている」と言われることがあるのをご存知ですか?目元を見てください。 キラキラ輝くブルーのアイシャドーでおめかししているのがわかるでしょう。これが品質の良い鯛の印です。 養殖の鯛では、なかなかこのアイシャドーは出ないのですが、カネキ印の来島鯛はほぼすべての鯛が このメイクをしています。

カネキの風景

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